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多才に生きた献身の生涯 やませんと東京  

“我らのやません”の愛称で日本中の人々から呼ばれてきた山本宣治。その人はいったいどんな生涯を送ったのでしょうか。
父亀松、敬虔な耶蘇に生まれ変わる
多年、宣治、亀松 ワン・プライス・ショップ
 飲んだくれの山本亀松は、京の路上で行き倒れ状態となっていたところをキリスト教宣教師に救われ改心。四条教会で出会った多年(たね)と結ばれます。二人は新京極で「ワン・プライス・ショップ」を始め評判をよびます。
 「花を植えて世の中を美しく」
 山本宣治が生まれたのは、開店1年余の1889(明治22)年5月28日です。宣治の名前は、宣教師の宣と、明治の治からとったと言われます。幼少より身体が丈夫ではなく、両親は静養の地として宇治・平等院近くに別荘を建てます。それが今日の「花やしき」です。このころの宣治の夢は、「花を植えて世の中を美しくしたい」、そのために園芸の勉強がしたいというものでした。
園芸への道
 1906(明治39)年上京、早稲田の大隈重信(早稲田大学創始者)邸に住み込みの園芸見習いとして働きました。そのかたわら神田・正則英語学校(現、正則高校)で英語の勉学に打ち込みます。この頃、社会主義理論に接します。しかし、またまた発病し「花やしき」に帰ることになります。06年9月、17歳のことです。
変人、センジ・ヤマモト ―新たな旅立ち
Heny Senji Yamamoto
サイン入り写真(1910年9月)
ブリタニア・ハイスクール入学直後
 1907(明治40)年4月、カナダのバンクーバーへ渡ります。宣治18歳。山宣は新聞配達、農場開墾、鮭取り漁夫、皿洗い、コック、缶詰工など20余種のさまざまな職業に就き、苦労を重ねます。この厳しい労働体験は山宣を鍛え、社会問題へと目を開かせていきます。改めて基礎からしっかり学ぶ必要を感じ、20歳の年齢を17歳と低く申請してストラスコナ・スクール(小学校7-8年、日本の中学校に相当)に入学し、翌1910(明治43 )年、晴れてブリタニア・ハイスクールに入学します。学校では、子どものころ”変ちゃん”と呼ばれていたので”変人・宣治・山本”をもじって「ヘンリー・センジ・ヤマモト」と名乗り、首席で2年生に進級します。
ハイスクール時代、山宣は、男女平等、自由主義、人権・貧富による差別の否定など民主主義的な考えをより深く理解し、ダーウィンの進化論などを読み、従来の園芸志望から生物学者を志すようになります。これらの”カナダ体験”が、後年、天皇絶対の専制支配の下で、屈することなく闘いつづける知恵と勇気を育み、「大逆事件」はじめ日本の思想弾圧事件を批判するところまで成長します。高校2年生(1911年11月)のとき、父の病気を理由で日本によび戻されます。
東京での再出発
 帰国した山宣は、1912(明45)年4月、京都同志社大学普通学校を経て、両親の反対を押し切って「花やしき」で働いていた丸上千代さんと結婚します。相思相愛の千代さんのお腹の中に第一子が宿っていました(長男・英治)。旧制第三高等学校を経て、17(大正6)年ロシア革命の年、東京帝国大学理学部動物学科に入学、一家をあげて上京、小石川区(現・文京区)林町に移り住みます。18年、東大の進歩的学生の集まりである「東大新人会」に入会、20年東大卒業。卒論は「イモリの精子発達」でした。
性教育のパイオニア、産児調節運動へ
「産児調節」の話をラジオ放送中の山本宣治(1928年1月、NHK・大阪放送局)
 ふたたび京都にもどり、京都帝国大学大学院(医学部)に入学、9月、同志社大学予科で「人生生物学」を講義。翌21年には各地での性教育啓蒙活動に積極的に参加。22年、アメリカのサンガー女史が来日し、その「産児制限」講演の通訳を担当、わが国での産児調節運動を起こすべく『山峨サンガー女史家族制限法批判』を出版します。題名を「批判」としたのは、時の政府・軍部が「産めよ増やせよ」の富国強兵政策をとっている中での産児調節運動を守るためでした。
「戦争撲滅ノ為奮闘セヨ !!」
 この年ベルリン大学の生理学者で反戦主義者、ゲオルグ・F・ニコライの『戦争の生物学』を『戦争進化の生物学的批判』(上巻)として翻訳・出版を手掛けました。のち下巻翻訳の決意をこめて、書斎に「戦争撲滅ノ為奮闘セヨ!!」のスローガンが掲げられました。その頃、相対性原理講演で来日したアインシュタインと会い、同書への推薦の辞をもとめます。そのおり、日本の反戦運動の実情について意見交換をしました。
山宣は、反戦運動の実践にも入ります。27(昭和2)年8月、中国侵略戦争反対のための「対支非干渉同盟」から中国視察団の団長に選ばれます。その中国行を阻止するために宇治署に勾留されますが、屈しませんでした。
労働者・農民の啓蒙・教育活動へ
 24(大正13)年に入ると、山宣の活動は、関西での労働学校講師活動や、学生社会科学研究会講師活動、農民組合での講座などの教育学習活動の分野に広がります。
労農党代議士として起つ
 ついで25、26年に入り、政治研究会や労働農民党(労農党)の活動に参加、小作争議支援を手掛けるようになります。労働者、農民の信頼が広がり、推されて労農党衆議院候補者になります。こうして迎えた28年2月の第1回普通選挙で京都2区から立候補、官憲の妨害をのりこえて奮闘し見事第3位当選を果たしたのです(このページの巻頭写真は労働農民党のバッチを着ける山本宣治〈1928年10月〉)。山宣は、東京・神田神保町の光榮館を定宿にして活動を始めます。こうした中、共産党の活動の拡大を恐れた支配層は、3月15日未明に全国一斉に治安維持法による弾圧を開始し、1600人余の共産党員、活動家を検挙しました。4月には、労農党はじめ評議会、無産青年同盟に解散命令が出されました。山宣は、弾圧犠牲者の救援活動や、労農党に代わる新党準備会に全力を傾けます。
 帝国議会で治安維持法にただ一人反対して
『山本宣治は議会に於いて如何に闘争したか』(希望閣版、1929年4月)
 山宣は代議士として全国を駆け巡り、帝国議会で弾圧の実態(「不法検束、不法勾留、拷問」など)を暴露し、政府当局を追い詰めます。その追及は、天皇絶対の専制支配の弾圧が、稀代の悪法、治安維持法によるものであることを国会の場で暴露するものであり、右翼や特高警察などの運動妨害や圧迫が強まります。1929(昭和4)年3月2日、治安維持法の死刑法への緊急勅令事後承諾案が国会に上程されました。3月4日、大阪で開催された全国農民組合大会であいさつ。「山宣一人孤塁を守る。しかし背後には多数の同志が……」と挨拶したところで「数弁士中止!」とさえぎられ、夜行で上京しました。
そして3月5日、国会へ向かうが反対演説の機会を与えられず、当夜、西小川小学校(戦後、西神田小学校)での東京市会議員の応援演説も弁士中止でさえぎられ、徒歩で神保町の光榮館へ帰宿、夕食中に訪ねてきた右翼、七生義団の黒田保久二のテロで刺殺され、39年9か月の生涯を閉じました。
 山宣の郷里、宇治に墓所建立が決まりましたが官憲の妨害で「山本宣治之墓」と彫むことが出来ず、「花屋敷山本家之墓」として建立されました。碑の背面に山宣最後の演説が刻まれましたが、その碑文をセメントで塗り固めるまで建立が許されませんでした。
その碑を守り抜いた人々の手で「墓前祭」が毎年3月5日に全国からの参会者を迎えて盛大に開かれ、今日を迎えています。
東京では、いま、山宣殉難の地、神田光榮館跡地近くに「記念プレート」設置運動が進んでいます。
(山本宣治の多才に生きた献身の生涯は東京山宣会ブックレット『山本宣治 “我らのやません”と東京』をご覧下さい。)




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